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2011/11/26 / phonda

ぬかしおる

先日、社長から僕に、ソーシャルメディアについて、こんな振りがあった。

「暴動を起こす力は大きくなってるけど、壊したあとに、何も作られていないんじゃないの? どうなの? 僕はよく分からないけど。ガハハハ」

その通りだと思ったので、「だと思いマッスル」と返した。

社長はもう60歳近い。僕に『ストリートファイター2』の話をしてくるような人だが、スマートフォンは使っていないし、Twitter や Facebook に入れ込んでもいない。

印象の話をしているのだろう。でも、そんなにズレてもいない気がする。

まったく新しいものであるかのように語られ続けたソーシャルメディアだけど、これが本当に革新的な使われ方をしているとは、僕は少しも思わない。

使うほうの人間の思想が古びていると感じる。というか、思想そのものが抜け落ちているようである。

僕は学生運動を体験している世代ではないが、たぶんこんな感じだったのだろうなと想像することができる。

悲観はしていない。僕はパソコンもインターネットも好きだ。

はじめてインターネットに触れた95年ごろ、「これでやっと社会から解放される!」と思った。今でもそこが一番好きなところである。

今の「ソーシャル」は、僕が捨てたそれをゴミ箱からわざわざ拾ってきて、「落としましたよ」と、しつこく押しつけてくるようなものになっているから、うざったい。

僕の思想は、「社会のない社会」の希求だ。飲み会にも、選挙にも、冠婚葬祭にも、戦争にも行きたくない。通貨もパスポートも要らない。納得のいかないテンプレートが多すぎる。

つまり僕は、「壊したあとに、何も作られていない」ことを肯定する。

従来型の「社会」はデータベースにバックアップしておいて、必要なときだけ呼び出せばいい。それが「ソーシャル」のあるべき形であるように思う。

だけど、連帯感を求めて、団結なんかしてたら、それはいつまでも遠い未来の話だろう。

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