Skip to content
2011/06/08 / phonda

あえて

思っていることを外に出す、書く、話すことについて。

それはいずれも、やってもやらなくてもいい事であり、それを「あえて」やっているという自覚は大切である。

意味不明なことや、気分が悪くなるようなことも、誰よりもまず自分がそれをふるいにかけて、「あえて」発しているのだということ。

言い換えれば、それを望んだという成果である。

「あえて」を自覚することで、自分の望みのスケールの小ささを確かめ、「あえて」憂うつな気持ちになってみるのも乙なものだ。

存在というものがすでに、強烈な「あえて」の集合ではあるが、「あえて」そんな目で身のまわりを見てみると趣き深く、ときに笑いをこらえきれなくなり、「あえて」怒った顔を作って公衆の目をあざむくこともあるだろう。

散歩用の犬のリード、シャーペンの芯、ズボン、めがね拭き、などなど、「あえて」の連鎖が生み出したものたちの、「あえて」感をじっくりと噛みしめてみるといい。

こうしてインターネット上に「あえて」文章や気持ちを記してしまうことの滑稽さも、僕は自覚しているつもりだが、やはり「あえて」書くことに決めている。

真意については、「あえて」ここでは言わないが、それは大切なことなのである。

広告