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2010/07/31 / phonda

「俺は俺の死を死にたい」

映画『インセプション』について書こうとしてまったく書けず、自分の能力の限界を知ると同時に、いたずらにガリガリ君を食べる日々です。

もともと、話すことも書くことも苦手なのでとくに珍しいことではなく、じつは「書けないけど、書きたいことがある」という状態に幸福を感じる自分の性質を知り、ガリガリ君の食べ方が心なしかエロくなってきました。

僕はここ数年で、妻、親友、後輩、と立て続けに人を亡くしているせいで、たぶん身の回りにいる人たちよりも「死」に敏感です。ただ、なんというか、敏感だからといってシリアスになりすぎるのも違うんじゃないかと感じていて、あんまり神経質になってしまうのは「死」をぞんざいに扱うことと同じだなと思っています。

そういったわけで最近、手当たり次第に「死」を扱っていそうな映画とかゲームとか本を食べ散らかしていたんですが、どうもシックリくるものが少ない。これはどういう事なんだろうと、グルグル考えているところに『インセプション』を観て、やっと整理ができました。

まず、これを自分で認めることが僕には重要なことだったんですけど、僕は「死」が好きなのです。「死」について考えることが好きなのです。だから適当な話をされるとすごいムカつく。

多くの作品が、「死(death)」と「死ぬ(die)」を不明瞭にしていて、たいした考えもなく人をどんどん殺している。人は簡単にとつぜん死んでしまうし、それは滑稽ですらある、という考えのもとにそうしているとも思えない。もし記号にするならば、記号に徹しなくてはいけない。それをうやむやにされると、僕はムカつくのです。

『インセプション』は夢や潜在意識の話なんですが、作品自体が大きな「死」の概念であり、そのなかで「死ぬ」こともキッチリと描かれているのが素晴らしかった。しかもエンターテイメント性まで備えていて面白いというのが、もっと素晴らしかった。

誰かが死んで悲しい。そんなのは当たり前のことで、だから命は大切!生きているって素晴らしい!とか、そんなくだらない教訓しか引き出せないのはバカだと思う。そしてその教訓は間違っている。人は誰かが「死ぬ」ことに直面した瞬間から、生きたまま「死」の世界を生きるしかなくなるのです。だから適当なことを言わないでほしい。

「”二次元”と”三次元”」。「”虚構”と”現実”」。「”生”と”死”」。僕がこのブログで稚拙に、遠回りをして書いてきたそれらは、安易に対極のものとして考えるべきではないし、ましてや傍観する視点から手軽に比較して語ってほしくないのです。してもいいけど、僕はムカついてるぞ、ということです。

ヒートアップしてきたので僕はガリガリ君を食べて頭を冷やします。『インセプション』観てくださいね!

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