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2009/03/28 / phonda

涙とおならが入れ替わっても、それでも君は泣くのかい?

行動や気持ち、おもに「喜怒哀楽」でまとめられた一連の流れ作業が退屈で、そんなものを交換し合うことしかできないのなら、さっさと隠居したい。

たとえば、泣いたことをやたらと強調する行為があるけれど、なぜ泣いたかの流れに意味がなくて、ただひたすら「泣いたこと」のみをごりごりに押しつけてくる。この記号が指し示すゴールは、その涙の訳ではなくて、泣いた「自分」であると思うから、鬱陶(←もっとシンプルな記号にしてくれよ。書けねえよ)しくて仕方がない。

言葉と行動が記号にすぎないことを悲観するわけではない。むしろそれらは記号でなければならない。だからこそ、このような「泣き」のごり押しに憤るわけだ。記号そのものに価値があると思い込む、おざなりがシラケる。

ここでたとえば、泣いたときに出るものが、涙ではなく、おならになったとしたら、その人はおならをしたくないから、きっと涙を流す別の行為をさがすと思うのだ。

もう、だから、最初から率直に「私、泣くのが好きなんですよ」とか言えばいいんだよ。

それか何も言わず、ただ黙って涙を流せ。ダチョウ倶楽部の上島竜平のように。

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