情熱大陸

「感動」について考えることで、多くのことが、次のステップに行くための手がかりを得られるような感触があります。

意図的にそれを排除してきたわけではないにしても、ある程度出来上がったシステムが惰性で動いてきた世界であることは誰もが認めることでしょう。

そこには選択の自由があるようでいて、じつはとても不自由な、意志の存在しない世界だったのではないでしょうか。規則的な運動を繰り返していたに過ぎなかったのではないかと、僕は感じています。

相変わらず経済もなんだか分からないことになっていますし、より一層、政治にも興味を持てなくなってきましたが、僕は感動だけを頼りに生きていくことが、あらゆることの近道で、本質を取り戻す唯一の手段のように思います。

そして、感動って何なんだろうということを日々考えながら、ラーメンを食べたりゲームをしたりしています。

大方、僕はそれについて答えを出すことができていますが、答え合わせの必要はないと思っているので、言いません。

というよりも、それが答えなのです。

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ゲーム・オア・ダイ

小学生の頃からテレビゲームをやっている。

ある程度の年齢になったら止めるのだろうと、大人になった自分を想像していたが、止めるどころか激化している。おそらく僕がゲームを止める日は、自分が死ぬ日だ。

そんな僕も、半年ほど完全な「ゲーム断ち」をしていたことがある。

昔からいつもバカな遊びやゲームを見つけては一緒に飛び込んでいた、友人のマコトくんが亡くなったのがきっかけだった。訃報を知らせてくれた妹さんが電話口で泣き続けるあいだ、僕は何も言ってあげることができず、やっと話せる状態になったときに自然に出てきた言葉が「もうゲームやんねえ」だった。

「コーラを飲むとバカになるよ」と言われ続けたのを思い出し、僕はゲームとコーラを封印して日々を過ごすことにした。とくに無理をすることもなく、僕の生活からはゲームもコーラも完全に消えた。

そうして過ごしていくなかで、ふと、この「封印」をした自分の意図に気づいてしまった。僕はふてくされていたのだ。マコトくんの死を受け入れない代わりに、彼との一番の思い出である「ゲーム」を処分するという、楽な選択をしただけだった。それはつまり、マコトくんを忘れることを意味していた。

そのことに気づいて、僕は処分してしまったゲーム機を次々に買い戻した。気づくと、封印する前よりも部屋にゲーム機が増えていた。僕は心に誓ったのである。「死ぬまでゲームやってやるわ!」

それから後は、寝る間も惜しんで、連日ゲームをやっている。

やりすぎて寝坊、会社に遅刻するといったイベントクエストも発生するが、知ったことではない。そこも含めてゲームだ。合い言葉は「ゲーム・オア・ダイ」。僕がゲームだ。コーラだって飲むよ。

※これは厳しいゲーム訓練を積んだ僕だからできることです。危険なのでマネをしないでください。

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脱落ゲーム

人が赦せないほどの罪を、人が裁くことはできるのだろうか。

人の命を奪うことが何よりの大きな罪であることに、異論がある人はあまりいないだろうと思う。異論がある場合、この話はここで終わる。でも少しだけおつきあい頂きたい。

この社会は「罪」を犯した人間に、なんのために「罰」を与えているのか。

先日、殺人容疑の青年が逮捕された。顔を整形をしていたとか、逮捕後は食事をしようとしないとか、どうでもいい情報が報道によってさらされている。不謹慎などという次元の話ではなく、これはもう絶望的に人間がダメになっている。

彼は「死刑」になるだろうか。何十年かの懲役を経て、社会に戻されるだろうか。

僕はどちらにもならないと思う。彼は「抹殺」されるだけだ。今までこの社会が延々と行ってきたとおり、彼の存在は抹殺されるだけで、事件は消費されるのだ。

当事者は永遠に苦しみ続けることだろう。

大学教授であったか、学部長であったか、彼を教えたことのある人が、彼に宛てて書いたメッセージを読んだ人はあるだろうか。

彼との思い出や、事件のこと、今すぐにでも警察に出頭してほしいという嘆願が、とても正直な気持ちで書かれていた。「君はやり直せる」という祈るような言葉、そして、校舎や学内の風景、手入れのされた花壇の写真がそえられたその文章の最後は、このように締められていた。

「君ともう一度だけ話をしたい」

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パラレル・ユニバース

ちょっと批判的な感じになりますけどね。

結局のところ、なんていうか、「インターネット」がよく分かってないんですよね。僕だってよくは分かりませんけど。昨今のグダグダした感じは、全部そこなんじゃないかって気がします。

「見える化」なんて言葉が横行しているのも、変化に対して「見える」ことしか理解しようとしないっていう、感性の停滞があると思うんですけど。だから小説なんかも眠たいものが多いし、本も実用性(僕は感じないけど)が重視された新書みたいなのばっかり増えてる印象です。

拡張現実にしても、仮想現実を「見える化」した注釈や補足ぐらいのものなのに、「凄い!未来だ!」みたいなことになってる。違いますやん。ぜんぜん違いますよ。だけど、それは有効なのかもしれないと思いました。

インターネットによってたくさんのものが変化して、これだけのパラダイムシフトを、多くの人が理解しないまま加速して進んだら、そりゃあ事故が起きるんですよ。今はその事故の現場検証みたいなことが始まったのかなって、僕は思ってます。(なんだよ偉そうに!お前誰だよ!)

デジタルコンテンツなんていうものもそうだし、お金もそうだし、見えるとか見えないとか、「見える」ことの意味について、もがきながら理解する補習授業がスタートしたという感じが、とても強いです。それがどこへ行くのか、僕には分かりません。

ビジネスの話にはあまり興味がありませんが、サービスなんてのも、見えないものだと思いますし、それもまた誰も理解はしていないように思います。

崩壊した価値の修復。なんだかとにかく、面倒くさいです。

それはいったい、誰の価値なんでしょうか。

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フレデリック

断言しておきます。僕はこの先も、有名になるようなことや、成功と呼ばれるようなものとは、程遠い人生を送るつもりでいます。(だいたい、そんな才能がないから、心配しなくてもよし!)

30歳を過ぎて、娘もいて、「自分探し」なんてやってたら相当なアレです。ただし、表現、なんて言うと大げさなんだけれど、やりたいことはある。それは、不特定多数からの賛美を要求するものではなくて、もっとピンポイントな、魂の放出みたいなことなんだなあ、と、お腹の肉をさわりながら思うわけです。

「未来」とか「時間」とか、僕が何かを考えるときに照合することなんですけど、「時間を超えられるのか」ということが重要で、つまり、広かろうが狭かろうが、ある特定の社会にしか通用しないようなことは、あんまり面白くないんじゃないかということです。

何がどこに、どう伝わるかなんてことは、分かりっこないんだけど、自分の魂をコントロールすることはできると思うから、たとえば、「300年後の世界で孤独に暮らす登校拒否児童」にむけて、自分の言葉を投げておくとか、なんかそういうことです。

まあ、3,000年後だったら、言葉がなくなっているかもしれないけど、絵画のように、なんだかその文字の並びを見ているだけで、説明はできないけど涙があふれてくる、というようなことだって、起こりえるんじゃないのかしら。

僕はそれを信じるし、やる。

つながるって、そういうことなんじゃないですかね。という魂を自分に向けて発射して、イスから転げ落ちるみたいな。ドラえもんの空気砲を逆にはめて撃っちゃうみたいな。「トンネルの出口で待っています(町田 康)」みたいな。入口どっち!みたいな。(すいません思いつきで適当に言ってます)

僕の場合、現実的なところでは、まずは娘に伝えること。何をかと言えば、「社会に閉じこもるな」ということで、早い時期にMacを買ってあげたいと思っているのも、最初から多言語に対応しているからで、なんか違うなと思ったら日本を出てもいいよ、という思いがあってのことであります。

まあ、今は僕のMacでうんこ描いてたりするだけなんですけどね。それを見て僕が感動していると。でもいいのそれで!僕は娘の描く絵が大好きだし、うんことパンクが伝われば、父は満足です。

そんなことを会社の机で書いていますぞと。仕事?知らねーよ!

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